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私は孤独を捨てられない。

こんにちは。お久しぶりです!とても気まぐれに思ったことを綴ろうと、パソコンを開いてみました。

 

ブログを開設してからもう3年?4年?くらい経つんですけど(時間の感覚が曖昧すぎる)、開設した当初って今よりもめちゃくちゃ気が病んでて、自己肯定感も今より低くて、なんというかわかりやすく病人らしい脳みそをしていたと思うんです。そういう感性のときにしか表現できないものもあったし、そういうときを経て今があると思ってます。でも、今も昔もずっとそばにあるのは「孤独」です。

今日ここに書こうと思っていることはタイトルの通りなんですが、決してマイナスで悲観的な内容ではありません。うーん、捉え方によってはマイナスになってしまうかもしれませんが、私は悲観的に捉えていません。なのでこの記事を読んで、私が病んでいるのでは・・・?と心配してくれなくても大丈夫です!と、いうことを先に伝えておきますね!

 

孤独とは

孤独って「ひとりぼっち」って意味らしいです。私はよく孤独を「精神的孤独」「物理的孤独」の2種類に分類しています。精神的孤独は孤独だと感じること。物理的孤独はその意味の通り、ひとりぼっちである状況を示します。一人暮らしのときはどちらも抱え込んでいた状態でしたね。

物理的な孤独は、実家暮らしなのでまずありません。年始にコロナにかかったんですけど、そのときも両親がとても私をケアしてくれました。

 

精神的孤独は物理的孤独状態で感じることもありますが、私の場合は人といるときや人と接しているときに感じやすいです。簡単にいうと周りと自分を完全に区別してしまうんですよね。そして見えない壁で自分と相手を遮断し、人がいるにも関わらずひとりぼっちのような感覚に陥るのです。ざっくりと下記に記述します。あくまで私がリアルで感じてきた感覚ですが、多分同じような感覚になったことが誰しもあるのではないか?と思っています。

  • 自分は誰からも理解されないと思う
  • なぜ自分だけこうなってしまうのかと思う
  • 価値観が合わない人を目の前に、心を閉ざしてしまう

 

孤独は必要なもの

兄が個人事業主、母が主婦、父が経営者、そして私は現在無職ですが、その人しか遭遇しえない事態だったり、どうしても他の人にはわかりきれない苦労だったりいろんなものがあると思うんです。それって、自分の立場を全うしている人だからこそ直面するものであって、あって当然のものだと思うんです。だから、むしろあったほうがいい。そういう孤独と向き合うことで得られる周りの人の温かさだったり、周りに支えられてる感覚だったりっていうのが実感しやすい気がします。孤独を知ってこそ、人がいることを思い知らされる。そして孤独は自分が自分を全うしていることの証明であると思っています。

 

私は孤独を捨てられない

昔から今まで、いろんな孤独があったという話を先程しましたが、今でも孤独は常にいろんなものと混在しています。SNSをやっていると、私と似たような道をたどって苦しんでいる人や精神疾患で辛い人をみかける機会がよくあります。そして私は過去にどれだけ自分が辛かったかわかっていても、その人の感覚にはなれないのです。簡単に踏み入ることもできない。きっと相手は孤独感に苛まれているだろうけど、私もまた孤独感に苛まれるのです。私が他人の辛さを100%わからないように、私のことをわかる人もいないのです。毎日薬がないと寝られない感覚とか、これまでいろんな辛さと直面してきたからこそ今の考え方がある自分とか、そういうものって人がわかるわけないんですよ。だって私じゃないんですもん。

 

でも、それでいいんです。それが自然です。私は私にしか歩めない大切な経験をこれまでしてきました。それは綺麗なものばかりじゃない、茨の道で人に笑われたり冷たく思われるところもあると思います。そしてその大切な経験を他人は知らないんです。私だけが全部知っている、私の財産であり、宝物です。

 

そして常にいつも私は自分と、そして孤独と向き合ってきました。大切なのは「自分は孤独だ」で終わらせないこと。希望を抱き続けること。光を見失わないこと。諦めないこと。

 

孤独と向き合うのはだめなことじゃない。だから私は孤独を捨てられない。