泣かない私が思わず泣いた、附属池田小学校の女の子の話。
こんにちは!先日ぶつけた薬指がいまだに痛いです。ちょっと顔色悪そうな色してます。
先日、とあるニュースをみたときのお話です。
20年前に起きた附属池田小学校の殺人事件のニュースをご存知ですか?学校に潜入した不審者により8人の子供が尊い命を断つことになった事件です。その事件当時、担任をやっていた先生方との取材がニュースで取り上げられていました。
いろんな先生方の悔やみや当時の出来事などが語られていくのですが、体調が悪かった私はぼーっとテレビを眺める程度にそれを見ていました。「あのときもっと早く助けの声をあげていれば」「死んでいった生徒たちのことを考えると悔やみきれない」「教師をやめようと思ったこともあった」など、様々な思いの丈を述べていく先生方。実際生徒を殺したのは犯人以外の誰でもないのですが、教師という身分でその場にいた当事者たちは自分のせいで死んだと思ってしまうのも無理ないよなぁ・・・と思いながら、本当にただただ、ぼーっと見てたんです。
しかしあるエピソードを聞いた瞬間、突然涙がこぼれ出てきました。
ある日課外活動で外で授業をしていたときのこと。死亡した生徒と仲が良かった女子生徒が、石ころを持って、こう言いました。
「先生、見て!この石、死亡の『亡』って書いてある!」
その子の担任はギクリとしました。たしかにその石には「亡」という文字と見れるヒビがはいっていたのです。次に、彼女はこう言いました。
「この隣に『月』を書いて、下に『王』を書くの。そしたら希望の『望』になるね!」
担任はこの女子生徒のこの言葉のおかげで救われ、今でも教師を続けていられるとのことです。
テレビのニュースでは、亡の隣に月、そして下に王とかいて「望」に見えるような石が映し出され、それと同時に上の女子生徒の言葉が流れていました。私はそれを聞いた瞬間、感じるよりも先に涙が溢れ、笑いが止まらなくなったのです。
すっげえや、子供ってこんなに無邪気なんだぁ〜こりゃ子供の力には勝てねぇ〜!!!私にはない生命力で満ち溢れてるじゃんか〜絶望のじゃなくて希望に変えられるのすっげえ〜〜!!!!
ひとりでリビングでアハハハと笑いながら、ただただ泣いていました。(客観的にみたらただの情緒不安定なやべえやつ)
しばらくブログをかいていなかったので最近の私の状態をご報告させていただきますと、絶不調です。(笑)自分になんの可能性も感じられず、それ故になにもする気が起きず、ただただネガティブを極めています。なにかしようと言われても気分が乗らず、とにかく覇気がない。人って自分に可能性や価値を感じなくなると、それまでできると思ってたこともやる気がなくなるらしい。”人”とくくってしまうとよくないかもしれないが、少なくとも私はそう思うらしい。何をやっても自分はダメ。生きる屍状態です。しかも体調不良時に睡眠薬を多く飲んでしまい、バレて親に怒られました・・・。この歳にもなって自己管理能力の低さで親に怒られるとか、マジで恥ずかしいにも程がありすぎる・・・・。
やりたいことを聞かれても、でてこない。浮かばない。
自分なんてダメだ。生きてる価値すらない。死なないから生きてるだけだ。そんなことを何日間も考えていた中での、今回のニュース。なにか感じるものがありました。
この子は死亡の亡と書かれた石ころを、希望に変えることができた。
私は死亡、または絶望としか考えられなかった。
ネガティブど真ん中にいる私には、今はこれ以上もこれ以下も述べることができません。
もし私が社会人時代がキッカケでこうなっていなければ、全然違う人生を歩めていただろうか。
もしもっと自己肯定感を高められていたら、もっといろんなことができただろうか。
こんなこと考えても仕方がないと思いながら、毎日現実逃避をし、時間を消耗しているだけの自分が情けないなぁ・・・・と思いながら・・・本当にいろんなことを思いながら、今日も生きています。
ここで大事なこと。
私は生きている。
生きていないとできないことってたくさんある。むしろ死んだ人の世界を知らないので、私達は生きている人間の世界線を全うするしかない。
自分はたいそれたことができるとも思わないし、誰かの人生変えられるほどの力を持っているとも思わない。何年間もニートをしている自分はもしかしたら社会不適合者になっているかもしれないし、少なくとも以前のようにバリバリキャリアウーマンとして働くのは無理だろう。いてもいなくてもいい人種かもしれない。
それでも、生きるものはきっとなにかしらの使命があって、生きるものだからこそできること、やるべきことがあるんだと思います。
生きてるだけで偉いってよくいうけど、ぶっちゃけ私はそうは思いません。死んじゃった人間が偉くないとも思わないし、「偉い」って人から与えられるものじゃなくて、自分が自分に与えてあげるものなんだと思います。生きるものにとって生きてることは当たり前で、その上でなにかしらの使命を果たして、はじめて「偉い」といえると思います。いやむしろわざわざ偉いとかいう必要なくて、認めてあげられればそれでいいんだと思う。認めてあげることを人は「偉い」と表現するのかもしれない。
前向きなことは考えられないくせに、こうした屁理屈じみたことを一丁前に考える脳みそだけは持ち合わせてるみたいです!(笑)最近の私は考える脳みそすらなくなってしんだかと思ってたけど、そうじゃなかったみたい。思わぬキッカケでしたが、附属池田小学校の女子生徒に教えてもらえました。
まず、生きるものとしての使命(生きること)くらいはちゃんと果たそう。
久しぶりのブログでお見苦しい点が多くなってしまったかと思います・・・スミマセン・・・・・。
あなたの毎日に少しでも希望がうまれますように。本日はこれにてサヨナラ〜!