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私はいいこをやめた。

こんにちは!お久しぶりです。

 

 

突然ですが、私はいいこをやめました。

というのも、つい先日カウンセリングを受けた際に、自身の変化を実感したのです。

「あ、もう昔みたいに周りに合わせてばかりのいいこちゃんじゃなくなってる。」

 

 

ある日カウンセリングを受けたあと、気付きをメモに起こしました。そのメモをもとに、私のちょっとした変化の記録をここに残したいと思います。以下、iPhoneに残したメモをそのまま抜粋したものになります。長文駄文、お許しください。

 

 

 

 

 

わたしはいいこをやめた。
世間体や人の言葉ばかり気にせず、自分がどう感じ、どう思うかを大切にするようになった。

 

はじめは一緒くたに「これはいやだ」ばかりだったけれど、「なんで嫌と思うのか」など、自分の内面と向き合うことで、自分を納得させたり、「いいんじゃない?」と言ってくれる「自分の中の親」という存在ができた。

 
「これはいやだ!」と駄々こねようとする子供。
それをどうして?と聞いて、丁寧に対応する親。

 

 

次第に自分の中での選択肢が窮屈ではなくなっていき、自然とストレスが減っていった。

しかしこれに気付くようになったのは、わがままと思われても仕方ないような「いやだ」の気持ちを芽生えさせることができたからだ。

 

いい子の自分は「いやだ」の前に、相手は何を思うか、周りからどう思われるかそんなことばかり考えていた。
そしてキャパをこえて周りに迷惑をかけたり、ストレスフルになって適応障害になったり、とにかく「生きづらい」を感じていた。

私は都合が良いだけのいい子をやめて、自分の意思で動けるようになったのだ。

 

例えば、掃除。
私は一時期、実家で2日に1度、掃除機をかける係だった。これがもうめちゃくちゃ面倒くさくて、母に言った。

「今日は疲れてるからしたくない。」
母は言った。

「全部やらなくてもいいんだよ。今日は1階だけとか、今日はモップにしようとか、自分で好きに決めて良いよ。」

 
母が言ったことを簡単にいうと「手を抜く日があってもいい」だった。

 

目から鱗だった。私は重いダイソンで1階と2階全ての部屋を完璧に掃除しなければならないと思っていた。完璧じゃなくてもいいという事実が、わたしのストレスを大きく減らした。私の中の概念が大きく変わった瞬間だ。「今日は掃除をしなければならない」が、「今日はどのくらい掃除出来るか」に変わった。

思えば、一人暮らししていたときから掃除は面倒くさがった。もちろん掃除をすることに好き嫌いは生じるし、私は嫌いなほうなんだと思う。しかしそれに加え、多分、"掃除"は「綺麗にしなければならない」という概念がより一層、面倒くさく感じさせていたんだと思う。だから掃除する日は一気に掃除した。だが、日頃からこまめにやる癖がなかったので出したものは出しっぱなしになる。
そしてまた気が向いた日に掃除をするのだが、これが年に数回あるかないかという、残念な様だった。多分、部屋は埃臭かったと思う。人が来る時だけ掃除していたような気もする。

 

 

例えば、外出。
いまの私にとって外出とは一大イベントであり、また、目的のない外出はそもそも好きではない。
「ちょっと気分転換に外に出よう」とか、
「自然と戯れてみよう」とか、
そんなものは正直ストレスでしかなく、楽しいとか充実とか、そんなものを得るにはやはり程遠かった。

しかし「洋服を買う」「カフェに行く」など目的を決めると話は変わってくる。その目的のためにオシャレをしたり店を探すなど、"出かけるモード"の自分をつくる。

そうして外出のモチベを上げれば、ストレスを感じることはさほどなかった。(もちろん起きること自体が面倒くさい日もあるが)

 

なんのために外出をするのか?
それは自分が楽しめることなのか?
そういうこだわりみたいなものが私には大事らしい。

しかし、自分が気の乗らない外出でも、"行った方がいい"ということはある。そういうときは、自分の中の親が出てきて何故行きたくないのか など向き合ってくれるのだ。

今までは断れなかったり、断って「した方がいいのに」と言われると、自責の念にかられることが多かった。ようは、嫌な外出を提案されることが大きなストレスとなっていた。しかし、今の私は違う。
自分の気持ちに気づくことに重きを置いてから嫌なことを嫌と言えるようになったし、このような自責は不毛だと気付いてから「嫌なもんは嫌だもんな。」と思えるようになった。多少周りから見るとわがままかもしれないが、いい子をやめたんだから、それは仕方ない。

 

 

 

今回のカウンセリングで、嫌なことは断ってもいいと思えるようになっている自分に気付いた。まだ自分の中の親の存在が薄く、駄々こねた自分が「いきたくなーい!」とつっぱねてしまうことも多いが、今後うまくつきあっていけたらな、と思う。 

誰かから「これをした方がいい」など言われても、嫌なものは嫌だし、ストレスが大きくかかる。まずは、自分がどう感じるかを大切にする。

 

「自分ルールでいい」と認識してから、掃除に対する嫌悪が前より消えたような気がするし、外出は他人が介入する問題なので難しいところだが、断れなくてストレスがかかるとか、断ったことでストレスがかかるとか、そういうことは大抵なくなった。多分いろんなことにいえることで、面倒くさいなぁと思いながら、これくらいなら出来るとか、これくらいならいっかとか、今はこれだけにしておこうとか、無理なものは無理とか、なんというか、「やらなきゃいけない」と思う必要はないんだと思う。

 

 

 

 

 

以上、私が咄嗟にメモに残した内容です。

私にとって”いい子”でいることは

楽なことで、

辛いことで、

都合よくて、

不都合で、

いい子であるがために自分の気持ちと行動に矛盾も起きたし、その矛盾に苦しんだりもしたし、結局はその場限りでのいい子でしかいられないのでボロが出てきて後々厄介なことになったりしたりもしたし、結局責められたりもしたし、なんというかただただ生きづらかった。

高校生の頃は特にいい子を演じきったと思う。(学校ではほぼ寝ており、かなり授業態度を指摘されたがそれ以外はいい子だった)これは高校生のことに限ったことではないが、昔から物分りがよく、一通りのことはできる子供だったので担任からの信頼もあつかった。親に心配かけさせるようなこともしてこなかった。しかし友人関係は一貫してずっとやりづらく、非常に苦手分野だった。

 

大学生になってから自由に振る舞う人間をたくさん目のあたりにし、ある意味ショックを受けた。

「この人たち、こんなんで今までどうやって人間関係築いてきたんだ」とすら思った。その人たちなりにいろんな悩みなども抱えていたみたいだが、私の目には、少なくとも私とは違う”なにか”を感じた。それがなにかはその時はわからず、「自由に生きててすげーな」くらいにしか思ってなかった。

 

 

自身が適応障害になり、抑うつ状態になり、たくさんの人に迷惑をかけ、それでも”いい子”を演じ続けようとしていたが、さすがに無理があった。私はもう成人した立派な女性であり、その場限りのいい子を演じて場を切り抜けられるようなことが非常に減った。というか、子供時代と違っていい子でいることによるメリットが非常に少なくなった。

 

「もっと自分を大切にしてほしい」

 

これはバイト先や大学時代に仲良くなった友人たちからよく言われたことである。私にはわからなかった。

「自分を大切にするってなんだろう。」

「今、自分を大切にできていない実感がない。」

「どうやって自分を大切にするんだろう。」

疑問が尽きなかったし、試行錯誤を繰り返してきた。自分を大切にしてきたつもりの行動でもうまくいかず、更に「もっと自分を大切にしてほしい」と言われるようになった。そのたびに悩んだし、いろんな人に聞いた。

 

その場限りの自己防衛と、自身を思いやった行動というのはまた違うらしい。もちろん自己防衛は大切だ。しかし、その場しのぎの自己防衛でやり過ごすことだけが自分を大切にすることではなかった。それに気付くのに、少なくとも10年以上はかかったと思う。

 

 

 

私は恵まれている。

仕事をこなしながらいろんな先々のことを考え、自身のためにこれだけの時間を与えられたか?と思うと、無理だったと思う。無職になり自由な時間が増え、そこで気付くことがたくさんあったし、今回の件についても何かをしながら同時並行で気付けることではなかったと思う。

 

 

私は自分や周りを傷つけないためにいい子を演じてきたつもりだった。しかし、なぜか結果はいつも息苦しかった。

いい子を演じるのは楽だけど、あとでツケが回ってくる。いい子をやめるのは勇気がいることだが、その時の自分の感情に素直になれることで自分に嘘をつくことが減ったし、気持ちと矛盾した行動をとることが少なくなったおかげでツケが回ってきたときの処理に頭を悩ませることもなくなったと思う。

 

どうやって生きていくかに正解なんてないし、私みたいにこんなにもがき苦しまなくても、うまく生きていける人なんてたくさんいると思う。ただ私にはそれができなかったというだけの話だ。

 

これからも人生は様々な分岐点だらけで、大きな決断をするときが必ずくる。大きな決断とまではいかないが、それがとても重要な場面だったりもするだろう。その時、私はこれまでのいい子ちゃんじゃなく、等身大の私の気持ちを大事にしようと思う。そしてメモにも挙げた「心の中の親」の教えもききながら、なにが大切なのかを話し合っていくことになるだろう。

 

 

ブログの記事として締まりが非常に悪くなりましたが、私の人生の記録のひとつとして捉えていただければ幸いです。

 

 

 

あなたの毎日に少しでも希望がうまれますように。本日はこれにてサヨナラ〜!