こんにちは!
私、多分心の病にかかるまではそれなりに”いい子”だったと思います。
最終的には自分のことしか考えてないんですけど(詳細後ほど)、周りのいうことをただただ聞いて、周りが用意してくれたレールを歩く。私の中でのいい子ポイントはそんな感じ。
性格は割とワガママな点もありましたが、親や周りを困らせるということはあまりしたことがなかったと思います。親に聞いても「子供のころに手がかかった覚えがない」という風にいいます。ADHDの話が出た時も私は昔からいい子で比較的優秀な子供だったので、親からは「そんなことないでしょ」という風に言われました。
いい子でいることって楽なんですよ。
いい子でいれば周りは何も言ってきませんし、周りからの評価はいいですから。
でもね、同時にいい子でいることって辛いんですよね。
もちろんそう感じない人もいるでしょうし、いい子を好きでやっている人もいるでしょう。
しかし、いい子って孤独なんですよ。孤独との戦い。だっていい子でいるためには自分がどうたち振る舞うかを一人で考えなければいけませんから。
いい子の意味を簡単にですが、ネットで調べてみました。
好(い)い子になる。
自分だけ人に褒められたり好かれたりするように振る舞う。「一人だけ―・ろうとしている」
goo辞書
いい子ってみんながいい子だったらいい子認定されにくいんですよ。自分がいい子と評価されなければならない。だから、いい子は「演じる」ことも必要なんです。
でも、上記の意味合いって割と自己中で計算高いですよね。その場の自分の都合いいようにたち振る舞っているような、”都合いい子”という印象の意味合いになります。
そうした、”いい子”や”都合いい子”になるべくしてなってしまった人もたくさんいると思います。どちらかというとそういう人のほうが多いのではないでしょうか?
勝手な自論というか、独断と偏見なんですけど、いい子と呼ばれる人って平和主義者とか怒られたくない気持ちが強いって人が多いと思うんですよ。
だから、自分がいい子でいなければならなかったとか、いい子でいる必要があった人ってたくさんいると思うんです。要はいい子をある意味、”強いられた”ような人。いると思うんですよね。この記事を読んで思い当たる節がある方も少なくはないと思います。
例えば身近なところだと、家庭。家庭の平和を保つために、忙しい親のために、自分がいい子でいなければならなかった。そんな方も多いのではないでしょうか。
そして都合のいい子ももちろん平和主義なんですけど、それはあくまで自分に向けられるベクトルに対しての平和。自分が平和であれば周りはいいんです。
例えば、友達グループ。
心から気を許して、ナチュラルに仲良しでいられる友達関係って子供の頃は難しいんですよね。自分の立ち回りとか、周りから好かれるようにとか、そういうことを気にしないといけない場面があった人も多いのではないでしょうか。時には誰かを犠牲にする必要もあったり、周りと同化する必要もあったりする。この場合、”いい子”というより”都合のいい子”という印象です。
この”都合のいい子”も”いい子”同様、孤独と戦ってます。どう立ち振る舞うかを考えるという点では一緒なんですよね。いい子は周りのことを考えて立ち振る舞い、都合のいい子は自分のこと、時には人のことを考えて立ち振舞わなければならない。
こうやってかいているうちに、いい子と都合のいい子の分別がわからなくなってきました。(笑)ケースバイケースですが、そのくらい紙一重な存在なのかな〜とも思います。
周りからの見られ方ひとつで変わったりもします。
本人にそのつもりがなくても、「計算高い」「あの子は都合のいい人だ」とマイナスに捉えられてしまったり、逆に「手がかからない」「いい人だ」とプラスに捉えられることもあるでしょう。
え?じゃあ都合いい人ってよくないの?
いや、これもまた違うんですよね。
例えば、ビジネス。WIN-WIN(互いに利益を得られること)であれば、互いが互いの都合いいように振る舞うほうがうまくいきます。
だから一概に”都合いい”が、悪いものだとはいえないんですよね。
さてここまで”いい子”と”都合いい子”を語って(?)きましたが、今まであなたはどっちでいることが多かったと感じますか?
このような問いをするというのも、必ずしも誰もがどちらか、もしくはどちらも通ってきた道だと思うのです。
それがいいことだったのか、悪いことだったのか。それは将来、当時を振り返った時の自分が一番よく知っていることでしょう。
私自身、精神疾患を患うまではいい子だったといいますが、自分が関東の大学にいけるようにうまく両親に立ち振る舞った(自分に都合のいいように立ち振る舞った)ところもありますし、関東に行くためにいい子にしていたところもありました。
先生から怒られるのが嫌いだったから問題ごとは起こさなかったですし、友達の輪に入るために少しワルぶって同化したこともありました。いい子と都合いい子の自分がそれぞれで存在したのです。
いい子は自分がナチュラルにやっていたことでしたが、その背景には私の兄がいました。
ひとついっておきたいのですが、兄のせいだ!兄が悪い!といった内容ではありません。
私の兄は音楽家です。うちの両親はどちらも芸術に触れたことがあまりない家庭でした。(いわゆる体育会系)兄は中学生の頃に父親の反対を押し切り、吹奏楽部に入りました。その後も大学に入るまで父親と話し合いをしている姿や、両親が喧嘩している姿をたくさん見てきました。
そのとき、当時まだ子供だった私は「こんな家族はいやだ」と強く思い、両親から反対されないような道を歩いてきました。そしていい子のレールを自分なりに歩いてきました。
働くことをやめてから2年ほど経ちますが、働くことをやめることは私にとって「いい子をやめる」ことでした。
いい子は私にとってとてつもなく、楽だったのです。しかしいい子でいることの選択をしたのは自分ですが、いい子を強いられていると感じていた分、辛さもありました。
そしていい子をやめることはもっともっと辛かったです。「いい子でいろ」「いい子をやめろ」というふたりの自分がずっと脳内で喧嘩しあい、誰にも相談することができない。そんな孤独との戦いでした。
自分の好きなように過ごすって意外と難しいです。結果自分にとっていいものであれば結果オーライなんですけど、じゃあそのためにはなにをしてもいいのかっていうとそうでもありませんよね。
今回は自分自身かいている中でよくわからなくなってしまい、かなり強引な終わらせ方になってしまいますから・・・・覚悟してください!!!(笑)
いい子でいることは楽であり、辛くもあります。
都合のいい子でいることを果たせば楽を手に入れられますが、渦中は辛くもあります。
どちらも「自分のため」にやることなのです。これが悪いことだとは一概にいいません。みんな、生きていくために必死ですから。
今の自分はどうか?
これまでの自分はどうだったか?
それから何か得られるものはあったか?
結果自分(や周り)は幸せになれるのか?
今一度、振り返ってみてもいいのかもしれない。
ブログを書いていく中でそう思いました。
あなたの毎日に少しでも希望が生まれますように。本日はこれにてサヨナラ〜!